ライズを待ち続けて

東北の渓流を舞台とした釣り物語

蜘蛛おじさん

3月で仕事を辞めてしばらくはすることもなくぶらぶらしていた。早朝の出勤時間帯に、3車線を埋め尽くした車の列が速い速度で流れている。その傍らで愛犬と散歩していると、あらためて身体じゅうから仕事の重圧が抜けていくのを感じた。 

 

そろそろ釣りに出かけようと思い始めたのが中旬を過ぎる頃で、インターネットを使って、各地の天候や川の雪代の量をウオッチし始め、キャッチ&リリース区間のある荒雄川まで出かけた。もちろん平日である。荒雄川に着いてみると、青空が空一面に広がっているものの風が強かった。残雪が残る禿岳から吹き降ろす風は水面にさざ波を立てていた。 

 

釣り人がだれもいない本流を諦めて、支流に入った。山懐に続く森に包まれているこの川は、風の影響を受けていなかった。川に沿って走る林道の轍には、ま新しいタイヤ痕があり、先行者があったことを疑わせたが、雪代の水流も強いので、たとえ釣り人が前にいても、気配が魚には悟られにくいだろうと思い、今年初めての釣りに取り掛かった。 

 

ドライフライを瀬脇の弛みを狙って流すがなんの反応もない。そこでニンフに切り替えた。オフホワイト色のヘアーズイアーズを流れに沈める。浮きが沈むようなはっきりとしたあたりは取りにくく、ちょっとした目印の動きに即応して合わせる釣りである。 

 

このスタイルの釣りは、魚がフライに飛びつく様を目の当たりにはできないが、水面まで上がってくる気のない魚を、疑似餌で釣るには優れた方法であることがわかってきた。自分なりのやり方を体得するまでには、餌釣りの達人から学んだところが多かった。 

  

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その達人とは人を通して知り合った。その時点ですでに高齢に達しておられた。渓流の餌釣り一筋に、長い長いキャリアを持つ。私は餌釣りはやらないが、同好の士の一人と認めてもらって会津方面の川を案内してもらった。仲間と共に、親愛、尊敬の念を込めて、御大と呼称させてもらっている。

 

一緒に釣りをしてみると、予測はしていたが、釣果には格段の差があった。御大の熟知したフィールドであるし、実餌なので当然のことと思っていたが、そういうことを差し引いても、イワナもヤマメもよく釣りあげる。私が竿を入れたすぐ後で、大きな獲物を釣りあげられたりすると、正直に言って複雑な心境だったが、そんなことが度重なると、見習ってフライフィッシングに応用することができないかと考えるようになっていった。 

 

御大の釣りで、まず目を引くのが使っている餌である。市販されているブドウ虫やミミズなどは滅多に使うことはない。ではなにかというと、その季節に応じて自然界にあるものを使う。春は、御大がじゃじゃ虫と呼ぶフタオカゲロウの幼虫。これは川や湖の水底に棲んでいる。御大は猪苗代湖に出向き、浅瀬に入って土砂を足でかき回し、ざるですくって採取する。この時期この餌に勝るものはないが、5月の連休を過ぎるころには羽化してしまって見当たらなくなってしまう。 

 

その次に使うのがバッタだ。春から夏にかけて季節が進むとバッタが成長して餌として使えるようになってくる。だからこの時期の釣りは、土手に生えた草の中にバッタを追いかけるところから始まる。 

 

その後はなにかというと蜘蛛である。蜘蛛は一年中どこにでもいそうなものだが、御大が使うのは、夏になって飛び始める虫を捕食する蜘蛛である。夜明かりに集まる虫を狙って、その近くに巣を張るので、そういうところを探すのが、効率的なのだそうだ。御大の経験では、ガソリンスタンドが最適な場所で、毎年その時期になると長いたも網を持って蜘蛛取りを始める御大を、スタンドの従業員は蜘蛛おじさんと呼んで親しんでいると聞いた。 

 

もっとも、御大の餌釣りの弟子たちは、じゃじゃ虫、バッタまでは餌として使っているが、蜘蛛をハリにつけるところまでには至らないようであった。 

 

御大の釣りの技法に関して注目すべきところは、しかけに重りをかませないことである。餌の自重で川を流し、浮く、沈むを操作しない。御大によると、重りによる不自然な動きを魚は嫌うという。そして重い錘をつけて底を釣ろうとすることでは全く釣果は上がらないという。 

 

御大の後ろに立ってその釣りを観察していると、見定めたポイントの少し上流に餌を落とし、道糸はたるませないようにしつつ餌は自然な流れに任せている。餌の動きを目印で追って少しでも疑わしい動きがあると、スナップを利かせて合わせを入れる。気配が濃厚なポイントでは、繰り返して同じ場所を攻める。時には逆引きなどもして魚を誘っているようであった。 

    

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今の時期なら御大はどんな餌を使うのだろうか。小さな川虫であろうかと思案しながら、ブラウン色の一段階小さなフライに替えてみる。目印が流れに飲まれたタイミングで手首を返したところ、手応えがあり水面からイワナが顔を出した。しかし、かかりが浅く、外れてしまった。 

 

その後、大きな堰堤まで釣り上がったが、水圧に逆らって釣り上ってきたためか、それを巻いて上流を釣るほどの気力がなく、今来た川を下ることにした。しばらくすると川の流れの中に大きな石が居座っていた。石の陰からのぞき込むと、裏には流心から外れた水たまりがあった。広さが2メートル四方くらいで、水深は人の腰ほどまであるように見える。 水たまりには、下流に向かう強い流れの巻き返しが流れ込んでいて、川底の白い砂の上を落ち葉や小枝の破片とかが、渦状に流れているのがよく見えた。その中にイワナの姿があった。 イワナは水流に体をなびかせて、流れをやり過ごしながら、流下してくる食物を待ちうけているようであった。 

 

いったん川岸を離れて、下流からそのポイントに近づいてみる。大きさは30センチくらいであろうか。ここからの距離は2、3メートルくらいしかないが、真後ろに位置しているこちらの存在には気づいていないようである。 

 

ロッドを軽く振って、先ほどから使っていたニンフをそっと落とし込んでみた。ニンフはたちまち水に溶け込んだが、水流によって移動しているのが目印を通してわかる。イワナのすぐ傍らまで寄るが、イワナの動きには変化がない。見えていないのだろうか。それともニンフには興味がないのか。観察していると、イワナは姿が見えなくなることがあるが、また同じ場所に戻ってきていた。 

 

ニンフの存在を知らしめようと、いったん水中から引き揚げて、イワナの鼻先めがけてニンフを落としてみた。しかし、イワナはそれには反応せずに、相変わらずゆうゆうと泳いでいる。そしてどういう具合だったのか、急にイワナが反転したと思いきや、目印が水中に引き込まれ、合わせた右手には数か月振りの手ごたえを感じた。 

 

釣れたイワナはすっかりさびも落としており、水で覆われた体は、キラキラと春の光を反射させていた。鈍いシルバー基調の体側には列状にドットが並んでいる。お腹や胸びれ、尻びれはイエローオーカーに彩られていた。顔には、あどけなさが残る若魚で、目が合うと語りかけているようにも思えてくる。ポンプで胃の中を調べると、トビゲラ、カワゲラのニンフが3、4匹入っていた。 

 

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体側の紋様に注目

今回は結果的に釣れはしたが、魚の動きが見えたことに拠るところが大きく、果たしてそうでなかったら、釣れただろうか。イワナが最終的に捕食するまで時間を要したのは、フライがイワナの視覚の範囲にはいっていなかったためか。それともフライを餌だと認知していなかったためだろうか。それは警戒したのだろうか、生餌ならもっと早く食いつくのだろうか。


そんな疑問点について、しっかりと私の中に居ついている御大と会話を交しながら帰路についた。

 

 

 

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ヘアーズイアーズニンフと捕食物