それはロッドを納めるアルミ製のケースのキャップ(蓋)のことであった。それを失くした時のことはよく覚えていた。
釣りを終えて、車から取り出したケースに釣り竿を収納しようとした時に、キャップを足元に落としてしまった。夕暮れ時であり、暗くなった草むらを探しても,見つけることができなかった。帰宅を急いでしまい、出直して探せば見つかるだろうと安易に思ったのが間違いだった。数日を経て探してみたが、もはやその時には、車を停めた位置も定かではなくなってしまっていた。
それ以後ずっと十数年もロッドケースの口は開きっぱなしである。ロッドを包んだビロードの生地がいつもケースから顔を出しているのを見るにつれ,落ち着かない気分になった。ロッドを取り扱う業者に尋ねたが,キャップだけの代替品はないとのことである。ホームセンターを探してもあるはずもなく、ネット検索をしても無駄で諦めざるをえなかった。だから、プロショップの店主に相談したのも、多くを期待していたわけではなかった。ロッドケースごと買い替えるように勧められるのがオチという程度と思っていた。
シンジから話を聞いた店主は、ケースの口径を指で測ってから、店の奥にある衝立に立てていた何本かのロッドケースから、似たような大きさのものを一本抜き出してきて、キャップを外し、シンジのロッドケースにはめ込んでみてくれた。キャップはギシギシと摩擦音を立てていたが、少し油を差すと今度は、くるくると回ってキャップはきっちりとケースに収まった
「ぴったりだね。」
店主のお眼鏡通りだった。アルミ製のケース自体は形状が異なっている別物であったが、口径は完璧に一致していた。喉から手を出しているシンジの様子を見て取ってか、店主は
「持って行っていいよ。」
と言ってくれた。ロッドケースは中古品で、修理伝票らしき紙片が輪ゴムでケースに止められていたことからも売り物でないことは確かであった。
「これはお客さんのものなんでしょう?」
「そうなんだけどね、預けたお客さんが取りに来ないんだよ。もうだいぶなるよ」
そう言って店主は、伝票をロッドケースから外し、巻き癖がついた伝票を手で伸ばしてみた。そこには客の名前と共に、確かに10年以上も前の日付が記載されていた。
シンジはその日家に帰ってから、ロッドケースのキャップを取り外し、またはめるという作業を繰り返してみた。キャップをロッドケースの口に当てて、最後まで回し切ると、キャップは静かに止まり、それ以上には微塵も動かなかった。指先には心地よい感触が残った。長年の懸念が解消したと思う一方で、心には、古い記憶がよみがえり、別な感慨が広がっていった。
実は、プロショップでの修理伝票にあった名前には見覚えがあったのだ。そこには、決して忘れることのできない名前がフルネームで書かれていた。