ライズを待ち続けて

東北の渓流を舞台とした釣り物語

川で失くしてきたもの   5 フライフィッシングとの出会い

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シンジはシゲハルと二人だけで話すのは、その時が初めてだった。シゲハルも釣りが好きで、ひとりであちこちの川に出かけて、川釣りをしていることをシゲハルの話から初めて知った。シゲハルの方も、シンジが同じ趣味をもっていることに好感を持ったようであり、学校で見せるような暗い目をシンジには向けなかった。二人の話は弾んだ。

 

それからは、しばしば二人で釣りに出かけるようになっていった。二人とも、粗末な釣り道具しかもっておらず、餌もミミズや川虫を取って使った。シンジは餌を川底に這わせるような釣りしか知らなかったが、シゲハルは、餌を川に流して、そしてわずかな当たりを感知して竿を合わせ、よくヤマメを釣った。シンジも真似をしてみるが、どうしても当たりが取れず、シゲハルのようにはいかなかった。

 

シゲハルはこの川だけではなく、近くの別な川でも釣りをした経験があり、以前、一尺を超えるようなイワナを釣ったことがあると自慢にしていた。シンジはそれまでイワナを釣ったことがなく、イワナは山奥の川に潜んでいて容易には近づけないと思い込んでいた。シゲハルの話では、自転車で行ける範囲でも釣ることはでき、しかもイワナは用心深いが、頭が悪いので釣るのは簡単だと、シンジにも釣れると言わんばかりだった。そこで、シゲハルの案内で山奥まで遠出をすることになった。

 

シンジの母親はシンジが釣りに行くことを快く思っておらず、自転車で山の中まで行くことを正直に告げたならば、反対するのは明らかだったので、内緒にすることにした。

二人は休みの日の早朝に待ち合わせをして、自転車で川に向かった。しばらくは国道を走り、それから分かれした道路に入ると上り坂になった。道は川に並んで通っており、橋を渡る度に、川は右左に位置を変えた。その川もいくつかの支流が分岐するにつれて、川幅が狭くなっていき、人家もまばらになった。最後には道路の舗装は切れ、砂利道となった。そこからは自転車を押して道を登り、やっとのことで、シゲハルが目当てにしていた堰堤に着くことができた。ところが、そこには既に先行者がいて釣りをしていたのであった。

 

その男は、二人が見たこともない釣りをしていた。堰堤の下のプールのずっと手前の位置から、細い竿を前後に繰り返し振っていた。竿先からはオレンジ色の釣り糸が長く伸びており、竿の動きにより男の前後に大きな楕円形を描いていた。そうやって狙いが定まると、釣り糸は勢いよく堰堤に向かって一直線になって飛んで水面に落ちた。何度かそれを繰り返していると、水面から魚が跳ね上がった。男は竿を高く持ち上げて、釣り糸をたぐると、魚はバシャバシャと水しぶきを上げて、男の手元に寄って来た。男は水中にネットを入れて魚を捕まえ、そして針を外した後で、惜しげもなく川に逃がしてやった。

 

シンジたちはしばらく土手からその様子を見ていたが、その気配を感じた男は近くまで寄って来て、シンジたちに声をかけた。男は、体の上半身まで覆う胴長を履いており、その上から釣り用のベストを着ていた。つばの広い帽子をかぶり、サングラスをかけていた。

 

「これはね、フライフィッシングという釣りなんだよ。」

シンジたちが問いかけると、男は田舎の中学生たちを小馬鹿にすることなく、優しく教えてくれた。そして釣り糸の先に結んだ毛ばりを見せてくれた。小さい釣り針には鳥の羽が巻かれていた。さらにポケットから出した透明の箱には、クリーム色、茶、黒、緑など様々な色の毛ばりがぎっしりと詰め込まれていた。男は毛ばりに見とれているシンジたちを尻目に、土手に腰をおろして、ポケットからタバコ出して火をつけた。男がゆっくりと吐いたタバコの煙が風のない朝の谷間に広がっていった。

 

男の釣りのスタイルは、シンジたちの釣りとはなにもかもが違っていた。川の中を歩くための丈夫な靴、しゃれた服装、遠くまで飛ばせる鮮やかな色のラインなど、ミミズの臭いがしない釣りだった。

 

男はタバコを吸い終わると腰を上げ、堰堤を越えて、さらに上流へ向かって行った。二人はしばらく男の後姿を見送っていた。そして、シゲハルは、我に返ったように

「なんだ、格好つけてやがって」

とつぶやいた。そう言いながらも、二人は男との話を振り返り、釣りをするのも忘れたように話し合っていた。