3日目
前日は釜石駅前のホテルに宿泊。朝起きてホテル屋上の露天風呂に入り太陽の光を浴びた。朝食を取りコーヒーをいただく。カフェテラスの前を通勤途中の人々が行きかっている。東南アジアからの若者たちは、談笑しながら通り過ぎていく。その後からは、やはり褐色の肌をした女の子たちが背筋を伸ばして自転車を漕いで行った。反対側からはうつむき加減にケータイを注視しながら日本の若者が歩いて行った。
駅前には作家の井上ひさしに因んだ石碑が3つ立てられている。そのうち一つはひさしが作詞した釜石小学校の校歌である。歌は、「いきいき生きる」という歌詞で始まって、2番は「はっきり話す」、3番は「しっかりつかむ」と続いて最後は「手と手をつないでしっかり生きる」で終わる。ひさしに頼んで作ってもらったものの、学校名も入っていないことに当初、関係者は戸惑ったというエピソードがもう一つの碑には書かれていた。
ひさしと言えば、私は、中学生のころに手に取った「ブンとフン」という作品を思い出す。親や学校が推薦するテーマが深刻な文学作品とは違って、面白くて読んでいて楽しい本だった。こういう本が出版されて流通するとは、案外世の中というものは許容性が高いのだな、と大人になった今の言葉で表現するとそんな印象を受けた。当時の私の目に映っていた世界はそんなことを感じさせるものだったのだろうか。
それからは、惹きつけられたように、ひさしの作品を探して読むようになった。同時にひさし自身のことも興味が湧いていった。ひさしは仙台市内の養護施設に入所しており、そこから高校へ通学していた。それを知って高校時代にその施設を訪ねて行ったこともあった。これだと思われる施設は丘を登ったところにあった。自転車を押して施設に至る枝道の入口までは行けたが、施設の名が記されている道標からは前に進めず戻ってきた記憶がある。うろ覚えだが、「住む家のない子どもにとって施設というところは快適なところであるが、代わりに行くところがあれば一日でも居たくはないところだ」という趣旨のことを何かに書いていたと思う。後年私自身が、施設入所する子どものたちに関わる仕事に携わるようになったが、子どもたちの心情を理解するにあたってひさしのこの言葉はよく役立ったと思う。
ひさしは高卒後、そこを抜け出して上智大学に入学するものの、まもなく休学して当時母親が住んでいた釜石市に一時身を寄せている。そして市内の療養所で働きながら、再度上京するまで数年間をそこで送っている。このあたりのことは別な小説にもなっていることだが、苦労を重ねながらも脚本家、小説家として名を成していく直前の雌伏の青年時代をここ釜石市で過ごしたことになる。その縁で後年、小学校の校歌も請け負ったということだろう。
ひさし自身は、2010年の4月に亡くなっているので、翌年の東日本大震災を経験していないが、震災後、避難所になったこの釜石小学校では、被災者たちも毎朝この校歌を歌って励まし合ったという。あらためて歌詞を読んでみると、親と暮らすこともままならなかった子ども時代や、吃音で苦しんだという経験からの教訓を、校歌に織り込んで、子どもたちに伝えようとしているように感じられる。そして、最後は困ったときには助け合うんだぞ、というストレートなメッセージで締めているのも示唆深い。
まさか近々に大津波が迫っていたとまで予測していたわけではないだろうが、三陸地方はそれまでにも何度も地震による津波を経験しており、その都度少なからずの被害を受けてきている。そのことをひさしが知らなかったとは思えない。もしかしたら、作家の脳裏には、繰り返される災害によって子どもたちの身に及ぶ危険を案じ、それを乗り越えて生き抜いてほしいという願いがあったのかもしれない。
大切なことをユーモアを交えて軽妙に、だれにでもわかるように伝えようとした一作家の思いは、メロディーに乗って小学生だけではなく、ひさしの知らないところで大災害で傷んだ人々の心を勇気づけただろう。