トントントンと坂を調子よく下って来た足が止まった。崖に縁(ヘリ)に転がっているのは、色や形からニホンジカのようだが、大きさからしてまだ幼体か。頭を谷に向けて木の根元に横倒しになっている。目は大きく見開いているが、動きは全くなく絶命していることに間違いはない。身体の一部に肉が露出しハエが群がっていた。良く見ると後ろ足の片方が、地面から浮いて張り出した木の根っこに引っかかり抜けないままになっていた。おそらくは崖を下ろうとして足元を取られたままに骨折したのだろう。可哀そうに。しばし茫然とした後で、傍らの枯れ葉の上に乗っかっている黒々とした大きなフンも視界に入ってきた。
遠巻きにしてそのまま谷底まで降りていき、川岸で釣り支度を始めた。考えない
ようにしようとするが、見てしまったものの映像が目の裏に張りついてまばたきしても消えない。ロッドにラインをセットして川面にフライを浮かべてみるが、さざ波に揺られるフライは人工物にしか見えない。見つめながら頭の中で自問自答が始まっていた。
崖を上り下りすることが得意なシカでも、木の根っこに脚を取られるようなことがあるのだろうか。それとも何かに追われて逃げようとしてよほど慌てていたせ
いなのか。肉が露出していたのはなにかに襲われたせいだろう。もしかしたら動けなくなっているところを別な獣に襲われて絶命したのか。いや死んでから食われたのかな。いずれにしても、あの大きなフンはその獣のもので、隣に残してあるということは仕留めたシカの所有権を公言しているのではない。もしそうであればその獣はまだそのあたりにいて様子を伺っているのではないか。
落ち着かないのは身に迫っている危険を察知しているからなのにやっと気づいた。そそくさとフライを回収して踵を返す。車まで戻りために、シカになるべく近寄らないで崖を登るルートを探すのもの、傾斜が急過ぎたり、藪が行方を阻んでいたりして、適当な道筋がなかなか見つからない。無理に崖に取り付くのも、余計に危険が伴うことから、結局は同じルートを取らざるを得なかった。どうやら傾斜が緩やで歩きやすい地形に「けもの道」が通っているのだろう。そうとは知らないで自分も同じルートを下ってきたということになる。ただ、そのルート上には、崖にしがみつこうとする木が根を複雑に伸ばしており、むき出しになった一部の根と根の間は土が抜けていた。シカは運悪くそれに脚を取られてしまったということだろうか。
あたりの気配を伺いながら慎重に崖を登って行くと、シカは同じ場所に上半身を崖に投げ出すように横たわっていた。そっとあたりを見回してみるが森は静まり返
り生き物の気配はなかった。骸(むくろ)の水晶のような眼も暗闇に沈もうとしていた。