さて、今日これから向かうのは大槌川と小鎚川。この二つの川はどちらも岩手山地を水源にして、東へと流れ太平洋に注ぎ込む。地図で見ると、すぐ南を流れている鵜住居川と合わせて、3つの川は等間隔で、長さもさほど大差がなく、まるで三兄弟のようである。私の持っている渓流釣りのガイドブック(注)には、鵜住居川については「流程ももちろん、何よりも岩場が続く渓相はダイナミックで、遠来の釣り人にはやってきてよかったという実感が持てる内容を誇っている」と、書き始められている。実際に行ってみるとそれが誇張ではないことがわかる。いい川だ。それに比べると、大槌、小鎚はスケールが一回り小さい。どちらも川沿いに道はついているものの主要道路ではない。上流からは峠越えの長い林道を経なければならず、かと言って下流から遡ろうとすると、沿岸の道路を迂回しないと辿り着かない。アプローチが悪い川なのでこれまで気を入れて本格的に入渓したことがなかった。逆にそういう点が、釣り人を遠ざけているだろうと踏んで今回は狙ってみた。
大槌川は、河口からしばらくは水量が少なく川は死んだようになっていた。車で遡りながら、川の様子を観察していくと、谷が狭まるにつれて、川の水も勢いを増してくる。ところどころに警告の標識があり、アユの稚魚を放流したので6月1日からは雑魚釣りを禁止するとのことである。
アユの放流については、その前の晩、地元の居酒屋で聞いていたことだった。海産物が食べたいと思って一見で入った居酒屋で、問われるままに渓流釣りに来たことを話すと、店の女将が鮎釣りだと誤解して、耳にしたばかりのテレビニュースを教えてくれたのである。敢えて訂正する必要もないとも思いながらも、鮎ではなくてヤマメを釣りに来たことを話すと、同じくカウンターで飲んでいた二人連れの若い客が話に加わってきた。彼らは、余程仲が良いらしく、さっきまでお互いに相手をこき下ろす冗談を言い合っていた。ひとりはこの店の常連らしく、見慣れぬ客が気になっていたようである。震災の復興工事も終わった現在、釜石市を訪ねる観光客は案外少ないのだそうだ。もう一人の若い方は大槌町に住んでいた。彼は、そのお爺さんに川釣りの手ほどきを受け、子どものころ釣りに馴染んでいたが、大人になってからは興味を失ってしまった。ただ、大槌川のすぐそばに住んでいるので、見ようとするでもなく、川の様子を目に入れながら毎日暮らしているのである。
それによると、今年の冬は大雪のニュースが度々流れていたが、それは日本海側の地方の話で、実はこのあたりは逆に降雪が少なくて、山の積雪も殆どなかった。普段なら雪解け水でいっぱいになる春の時期も、川は渇水がひどかったそうである。季節が廻り、降雨があって持ち直してきて今に至っている。そんな状況だと聞くと果たしてヤマメが順調に育ってきているか危ぶまれた。そして相当数のアユの稚魚が一気に放たれたとしたら、そもそもアユはヤマメを駆逐すると言われているだけに、どこにいるのだろうか、と川の中を想像した。
しばらくは飲みながら川をネタにした話が続き、ヤマメを釣るならば、あのあたりが良いとか、具体的な地名も出して教えてくれた。感謝して機嫌よく店を出て、酔い覚ましにホテルまでの夜道を歩いて帰って来たのであったが、朝起きてみると、アルコール分が肝臓で分解消化される如く、前日の会話で聞いた地名も頭の中からすっかり消えてしまっていた。朧げな河口にある町の中心部から相当上流だったという記憶を頼りに川へ向かった。
大槌川を車で遡り、本流から伸びるいくつかの支流をやり過ごしても、案外川の水量は減らなかった。西の山に向かってどんどん進んで来て中山という集落までやってきた。高台から下流を見下ろすと、川は崖下をぐるりと牧草地を取り囲むように流れていた。遠目にも水量がほどほどにあって、水面に白波を立てている瀬が断続的に続いているのが見えた。平日の午前中の時間帯で、晴天に照らされた周辺に釣り人の姿はどこにも見られない。ここに場所を決めて身支度を整えた。
川まで降りてみると、浅い流れが川幅いっぱいに広がっている瀬と、水流が片岸に寄り集まって、底が見えない程度に水深を持っている深みとが交互に繰り返されている。浅瀬にフライを流しても何の反応もない。しかし、川面に張り出してきている枝の陰になっている水の弛みを狙うと、素早い反応があり、まるまると太ったヤマメが自ら飛び出してきた。渇水がひどかった時期を経て、雨で水量が増え、最近は気温も上がってきたので、川に住む昆虫たちを追って魚の動きも良くなってきたようだ。おかげで白昼の釣りを楽しむことができた。
(注) 岩手県の渓流県南編 山と渓谷社