今年の夏至の日に西津軽の追良瀬川まで、はるばる釣りにでかけた。追良瀬川は久しぶりで、震災後は初めてであった。いろんな思い出があり楽しみにしていた。しかし、着いてみると川の水は少なく、河原の石は乾ききっていた。これでは魚も育っていないだろうとわかっていつつも、未練がましく、フライを浮かせたり、沈めたりして魚を川から引き出そうとしばらくやっていた。ゆったりと日は暮れかかっている中で、周囲に人の気配はない。夕まづめ時まで河原に佇んでいたが、水生昆虫が飛び始める様子はなく、魚のライズの音もない。静かなものである。
追良瀬川は、以前弘前市に住んでいたころはよく釣りに来ていた。車で急いでも1時間半はかかったが度々足を向けた。白神山地から日本海に流れ込む清流で、河口から5、6キロ遡った松原の部落より上流は人家もなく、山が自然のままに保たれていた。
そういった条件が揃っているにも拘らず、釣果と言えば満足できるものではなく、一日中竿を降り続けても釣れるのは、手のひらにも足りないほどのチビヤマメだったこともある。どこかに大型な魚が潜んでいる気配がするが、水面に漂わせたドライフライに簡単に食いついてくれるほどは甘くはなかった。隣接して流れている母沢という川にいる魚は、お人よしで、行けば必ず挨拶してくれるのとは好対照に、追良瀬川ほどの川の中流域の釣りは難しかった。サクラマスやアメマスが遡上していることも分かっていたので、それを釣りあげるためには、水面下での勝負を仕掛ける必要を痛感した。
ドライフライは、空間を浮遊する昆虫の姿を模しているのは分かりやすいが、ニンフ、ウエットフライは魚が好んで飛びつく餌にはどうしても見えなかった。そんな疑いを持ちながらも、数あるウエットフライの中から、アレクサンドラを選んだのは、アトラクターの要素を持っていたからだった。私にフライフィッシングの手ほどきをしてくれていた師匠が追良瀬川ではスプーンをきらめかせて大きなアメマスを釣った。それをヒントにきらめく要素を持っているフライに着目したのだった。
アレクサンドラのボディには銀色のティンセルが巻かれている。それに朱色のグースフェザー、ウイングはピーコックの羽の中でも柔らかく光沢のあるピーコックハールが何本も束ねられている。ブラウンやグレイのもじゃもじゃしたフライよりは、魚を幻惑するのではないかと勝手に期待したのだった。それでもって5月の追良瀬川で試してみた。
川の対岸に向けてフライを投げ入れ、流れを横断するように泳がせた。落差のあるポイントでは落ち込みの水泡の中に投入してみたりもしたが、手応えもないまま川を釣り下がっていた。折しも降り始めた雨は強くなり、レインウエアの袖口から入った雨水が衣類を濡らした。一緒に来た仲間は諦めて車の中に避難して、土手の上の砂利道を通って近くまでやってきて、早く帰ろうと私を呼んでいる。
それに気づかないふりをしているのは、目の前の雨で増水して勢いを増しつつあるこの水塊の中には、なにかが潜んでいる気配を感じていたからだった。アレクサンドラが雪代の流れに巻き込まれて下って行った時に、突然ドンという大きな当たりがあった。向こう合わせだったが、それまでにドライフライでは経験したことのない引きであった。華奢なロッドは満月のようにしなった筈である。しかし、それは一瞬のことで、竿を引いた瞬間に手ごたえはどこかに抜けて行ってしまった。手繰り寄せたリーダーの先にはアレクサンドラが空身で戻ってきただけだった。
それ以降の釣行でも、アレクサンドラを何度か使ったが、さしたる釣果もなく、やがては散逸してしまって新たに作ることもなく過ぎてしまった。ウエットフライについては、その後の北海道のニジマス釣りで多用することになるが、主役はプロフェッサーやダンケルトなどに譲り、アレクサンドラは日の目は見ることはなかった。それでも、追良瀬川というと、アレクサンドラの色のコーディネーションとあの手元に受けたショックを思い出す。
今回この原稿を書くにあたって、あらためてアレクサンドラといういわくありげな名前を不思議に思って調べたところ、ちょっと面白いことがわかったので、最後に記しておく。
発祥は1860年代にスコットランドに遡る。小魚のイミテーションとして、特に湖で用いられていたのが、川に遡上したシートラウトやアトランティックサーモン用のフライとして発展し、あまりに釣れるので一時期使用が禁じられたこともあるという。やはり、あの時ひっかけて釣りあげられなかったのはサクラマスであったのか。惜しいことをしたものだな。
そもそもは、「Lady of the lake」という名前だったのが、エドワード7世の妻で美人の誉れ高い、アレクサンドラ・オブ・デンマークに因んで名前が変えられたという経緯がある。アレクサンドラは国民にも大変な人気があったそうで、親しみを込めての命名らしい。華やかな気品を湛えていることも関係しているのかもしれない。
王妃に対する冒涜だという批判もあったが、結局は現在までこの名前で残った。そして、時代を経て、極東に伝わり、20世紀の末には西津軽の河川でも用いられるようになったということになる。
(夏至の追良瀬川 改題)