ライズを待ち続けて

東北の渓流を舞台とした釣り物語

 サクラマスの渚 1

                  

 目の前には初夏の日差しを浴びた海原が広がっていた。沖からは浜辺に向かって緩やかな風が吹いており、砂浜にさざ波を打ち寄せていた。そして波間には時折大きな波しぶきが跳ね上がった。浜辺の背後はすぐに切り立った崖になっていて、表面の地層を露わにして聳え立っていた。断崖は、緩やかな湾曲線を描きながら、海岸線に沿って南北両方向に伸びていた。そして北の方の突端付近には明るいオレンジ色をした建物の屋根が霞んでいた。まぶしいほどの日差しは、マリンレジャーにはうってつけだったが、平日の午前中のためなのか、それともこれと言った観光地でもないためか、この渚には人の気配は少なく、一組のカップルと、それとは別に大きな石に腰を下ろしている男の姿以外には人影はなかった。カップルの男女は、会話を交わしながら、砂利の上をそぞろに歩いていた。夏服の二人は初夏の日差しを照り返した。

「釣りですか。」

マコトは海に向かって座っている男の背中から声をかけた。船員帽子から白髪がのぞいている男は、日に焼けた姿で、とりたてて釣りの身支度をしているわけでもなかったが、同じ釣り人の臭いがした。声を聴いて男はマコトの存在に気づいたようで、振り返り、「ううっ」と、否定とも肯定ともとれるように口ごもった。マコトが重ねて何か釣れるのか尋ねると、間があった後で、「サクラマス」とはっきりとした答えが返ってきた。

サクラマスは、ヤマメが川から下り、海を回遊してふるさとに戻って来た魚である。その名の通りに、春に川へ戻ってくるものとばかり思っていたマコトには意外な答えだった。訝しげにしているのをマコトの表情から悟ったのか、男は海を指さして、

「そのあたりを回遊しているんだよ。」

「ほら、今跳ねただろう。」

と、波間を指さした。マコトには、広い海のどこで魚が跳ねたのかその姿を捉えられなかったが、確かに何かが水面を叩く水音が聞こえた。

「奴らはこの川へ上がってきたいのさ。」

マコトが男といるところと、カップルとの間には小さな川があった。川は断崖の切れ目を分け出るように流れ下って海に注ぎ込んでいた。しかし水量はほんの僅かであった。

「こんな流れにサクラマスは上がれるのですか。」

マコトが尋ねると、

「雨が降って水量が増えるのを待っているのさ。」 

水しぶきを上げてライズする大きな魚がマコトの視界に入った。全身を飛び出させて、音をさせながら水中に没した。ほんの一瞬の出来事だった。

「あれなんか、いいサイズだ。だけど、まだ遠すぎる。岸から100メートルか、それ以上はあるな。若い者だったら精一杯ルアーを投げ込めば届くかもしれないがね。」

川の流れは河口で扇状に広がり、砂浜の上をすべるようにして海に流れ入っている。そこをさっきのカップルが、こちらの方へ向かって渡ろうとしていた。女は、スニーカーを脱いで、足のくるぶしまでを浸らせてこちら側に渡って来た。もし、あれほどの大きな魚がそれを遡ろうとしたら、体の大半を水の上に出てしまうのではないかと、しぶきをあげて川をのぼろうとする姿をマコトは想像した。

「兄ちゃんも釣りが好きなのかい。」

マコトが頷くと、男はズボンのポケットからスマホを取り出してマコトに画面を向けた。暗い画面には銀色をした太った魚が映っていた。

「今朝獲ったやつさ。」

サクラマスは、一日の中では早朝に岸に寄ることが多く、それを狙ってまだ日が明けやらぬ時間に男は毎日通ってきていた。今年は豊漁で、もう何本も上げたらしい。サクラマスは決してこの河口から離れることはなく、日中でもなんらかの理由で急に近づいてくることがあるので、男は海から目を離さずに、こうしてチャンスを狙っていたのだった。今年のように雨が少ない年は、遡上するタイミングを失ったサクラマスが海にたくさん残っていて群れをなしているという。

「お盆のころになると、サケもやってきてよ。一緒くたになって泳いでいるんだ。」

「食っては、サクラマスの方が上等だ。サケはみんなよそにくれちまう。サケがかかるのは、ちとやべえんだがな。でもこの辺りはその時期になると大勢の人が集まってくるんだよ。」と言って、ガハハハッと笑った。つられてマコトの顔にも笑みが浮かんだ。