ライズを待ち続けて

東北の渓流を舞台とした釣り物語

川で失くしてきたもの   8 小沼先生の失態

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「今日はたいへん珍しいお客さんをお迎えしています。」

と、校長先生は中学校の体育館のステージに立って、マイクロホンからフロアーに整列して立っている全校生徒に晴れ晴れしく語りかけた。

「ジェニーさんは、アメリカ合衆国のニュージャージー州から来られました。大学で農業を専攻され、いまは大きな研究所の研究員をされています。この度は、当地の特産品であるリンゴの品種改良に関心を抱かれて、日本にやってこられました。」

 校長先生の話では、ジェニーさんたち一行は、シンジたちが住んでいる市を含めて何か所かの研究施設の視察のために、日本を訪れていた。それを知った校長先生が、急きょ市役所のお偉いさんにお願いして、学校にも立ち寄ってもらったということだった。

 「と、いうわけでありまして、短い時間ですが、ジェニーさんのお話をみんなに聞いてもらおうと、急ではありましたが集まってもらうことにしました。外国の方から直接お話を聞くことができる貴重な機会なので、みなさんよく聞くようにしてください。通訳は小沼先生にお願いしました。」

 ジェニーさんは、拍手に迎えられ、袖からステージに上がった。ジェニーさんは、若いアフリカ系の女性であった。シンジたちは外国人を見る機会がそもそも少なかった。漆黒の肌、ちじれた頭髪、グラマラスなボディラインとそれに似合う原色のワンピースを身にまとっている姿に圧倒された。

「ハロー、エブリワン」

ジェニーさんがマイクに向かって太い声を出すと、フロアーからは、どよめきが起きた。おそらくほとんどの生徒にとって、メディアによらないネイティブの英語を聞いた初めての瞬間であった。シンジは、日ごろ小沼先生が教えてくれている通りの英語だなと思い興奮した。

ところが、通訳役の小沼先生の姿は見えない。ステージに上がる階段の下で、先生たちがもめている声がする。

「いやいや、私は...」どうのこうの。

「そう言わずにほら、お願いしますよ」どうのこうの。

「いやいやそんな話は聞いていない」どうのこうの。

断片的に聞こえる先生同士のやりとりから、遠慮しているのか、尻ごみしているのか、小沼先生がステージに上ろうとしていないことが分かった。

 ジェニーさんは話を始めるわけにもいかずに、しばらく様子を眺めていたが、押し出されるように小沼先生がステージに上がると、にこっと可愛いい笑顔を見せて、小沼先生に握手の手を伸ばした。小沼先生は、困った表情で手を握り返した。

 そこから、ジェニーさんの英語のスピーチが始まった。手振り、身振りの大きなアクションを交えて、なにかを一生懸命に話していた。その明るい表情や大きな声の抑揚から察するに、楽しいことを話しているのだろうとは思ったが、内容はまったく理解できなかった。

ジェニーさんは、途中で話を区切って、小沼先生の方を向き合図したが、小沼先生は一向に通訳する様子はなかったので、一方的に話し続け、10分ほどのスピーチを終えた。しばし静寂があり、注目は小沼先生に集まった。それを受けて小沼先生はマイクに向かってこう話した。

 「みなさん、こんにちは。私はアメリカのニュージャージー州から来たジェニーと言います。日本にはリンゴの研究に来ました。みなさんに会えて光栄です。日本は初めてですが、とっても楽しいです。今日はありがとうございました。」

そうして、さっさとひとりでステージを降りてしまった。フロアーには、またどよめきが起こった。今度のどよめきはなかなか収まらず、失笑が起き、やがて嘲笑に変わっていった。

先生方が、ジェニーさんの引率の方への応対で取り繕ろいようがないほどの慌て方をしていたのとは対照的に、一番落ち着いていたのはジェニーさんだった。もちろん日本語は分からなかったと思うが、眼前で起こったことを正確に理解したようだった。両手を脇に大きく広げて、肩をすぼめ、目を丸くするという外国人がよくするポーズをしたこと思うと、そこで、にこっと微笑んだ。それから、歩きながら、大きく手を振ってステージを降りていった。シンジやシゲハルを始め、生徒たちは、結局スピーチの内容はなにひとつわからなかったが、その素敵な姿に拍手喝采を惜しまなかった。

 シンジの心には、ジェニーさんのおおらかで、気さくな印象が強く焼き付いた。そして、思ったのだった。やっぱりアメリカはすごいなと。