ライズを待ち続けて

東北の渓流を舞台とした釣り物語

川で失くしてきたもの   3 失われた教科書

 

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 シゲハルは、中学校の教室の中ではいつも一番前の席に座っていた。背丈が低いということもあったのかもしれないが、むしろ教壇に立つ先生の目が届くところに座らせられていたというところだった。というのも、シゲハルの言動には他の生徒とは異なる奇妙なところがあった。まず、授業中によく居眠りしていた。疲れているのか、先生の話に興味が持てないのか机に覆いかぶさるようにして動かなかった。それから、朝ごはんをいつも食べておらず、午前中は腹を減らしていた。身だしなみについても決して清潔と言えず、秋に衣替えをする時期になっても、白いワイシャツしか着ていなかった。そして、手提げの学生かばんは、いつもパンパンに膨れていた。こんなあり様だから、学校では、男子からも女子からも、揶揄されがちな対象になっていた。

 

シゲハルは、宿題や提出物などもよく怠った。しかし、注意しても効果がないことから、先生方は、「シゲハルならしょうがないね」と諦めがちな言い方をすることが多かった。そんな中で、小沼という女性の英語の先生は違っていた。

 

小沼先生は近くの大きな都市から自家用車を運転して学校まで通勤していた。その車は、水色のクーペで、他ではあまり見かけたことがないような美しいスタイルだった。学校内の駐車場でもよく目立った。

 

「ハーイ、グッドモーニング、エブリワン」

と小沼先生は、授業の冒頭このように挨拶した。生徒は、

「グッドモーニング、ミセスコヌマ、ハワーユー」

と返答するのがお約束ごとであった。そうすると、

「アイムファイン、センキュー、アンジュユー」

「ファイン」

と毎回繰り返された。小沼先生は大学の英文科を出ているという噂であった。

 

小沼先生の年齢はシンジの目には40代の半ばくらいに見えた。華やかな雰囲気で、職員室では、大きな声で笑う姿が見られた。シンジの担任の体育の男性教師とは特に親しいらしく、よくじゃれ合うようにしていたが、それは生徒の目にも学校という場にそぐわず、二人の関係を訝る噂が流れたりした。授業においても、機嫌よく英語を披露している時もあれば、時に生徒を厳しく叱った。

 

この日シゲハルは、前回の授業に続いて、机上に教科を机に開いていないことを咎められていた。シゲハルは、

「失くした。」

と、言い訳をした。そのぶっきらぼうな言い方が癇に障ったのか小沼先生は、

「いったい、こんな大事なものをどうやったら失くすのですか。」

言葉に感情が入った。ニヤニヤ笑っていた生徒もその勢いに気圧されて顔を伏せた。教室は静まり返った。小沼先生は、追い打ちをかけるように、黙っていないで答えなさいと厳しく言い放った。

「じいちゃんに燃やされた。」

シゲハルの返答に先生も面食らった様子であり、しばらくは二の句が継げなかった。そしてかろうじて

「先生はそんなウソは信じませんからね」と言い捨てて、授業は再開された。

 

確かにシゲハルは、ウソをつく癖もあった。ウソがばれて、クラスのいじめっ子たちに責められて、暴力沙汰になることもあった。だが、今回の現実離れしているその言い訳は、簡単にウソと決めつけることができない幾ばくかの真実を含んでいるようにも思われた。そして、先生にも立ち入れないほどの闇をシゲハルは抱えていることを、中学生のシンジにも感じさせるのであった。